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元少年ライカ / あるぱちかぶと

記憶に忘れられ、わたくしは宇宙のはずれで待ちぼうけ。
記憶に忘れられ、わたくしは宇宙のはずれで待ちぼうけ。
記憶に忘れられ、わたくしは宇宙のはずれで待ちぼうけ。
記憶に忘れられ、わたくしは宇宙のはずれで待ちぼうけ。
 
たとえば名前、名前がございました。上履きの背に小さくにじませたあの文字。ちゃんづけに「くん」か「さん」、あるいはあだ名、呼び捨て。多くの方にそれを用いて後ろからお声がけされたらば「はい」と返事をし振り返る私。願いを込めて命名されたのであろうその響きは泡のごとくはじけてゆきました。けれどきっと私は愛しておりました。
 
たとえば故郷、故郷がございました。幼少期を過ごした街、あるいは村があり、砂にまみれ真っ黒になり遊びに明け暮れる日々、河川敷で夕暮れを追うようにのろのろと自転車を並べ家路に向かったり、そこで幾年の三が日を過ごしたのでありましょうか。たどるべき道は沈み、途絶えてゆきました。けれどきっと私は愛しておりました。
 
たとば家族、家族がございました。一つ屋根の下で卓を囲み、枕を並べて、寝食芯三を共にし築かれた絆。週末には車でどこか遠くに出掛けて、たくさんの写真をアルバムに収めては昔の思い出を肴に酒を酌み交わしたのかしら。全ては焼かれ空へ昇ってゆきました。けれどきっと私は愛しておりました。
 
たとえば仕事、仕事がございました。雑居ビルの一画に構えた小さな事務所で誇りを持ちひたむきに情熱を傾け、部下同僚顧客と額を合わせたのでしょうか。くたくたに帰宅してネクタイを緩めつつ夢うつつの子供の寝顔を覗き込んだはずです。すべてはデリートキーで削られてゆきました。けれどきっと私は愛しておりました。
 
かつて。私にも大切な小説があり、飽きもせず一枚の絵画を壁にかけ、季節のつまむレコードに針を落としては自分だけの特別な風景を胸に呼び起こしたり、暦には一年に一度の日付に丸を付け、諳んじた映画の名台詞を口ずさんだり、短冊に認めたいくつもの淡い夢を夕刻の誘いになびかせたのでしょうか。くしゃくしゃに顔をしかめ獅子舞に頭を噛まれ、6月の猛暑日に西日差す公園の噴水でびしょ濡れになって水遊びをしたり、蛾の飛ぶ灯の元、友とカラカラと笑って、託児所から自宅まで我が子の手を引き、おいしそうな夕げの香りに玄関に迎えられ、唐突な知人の死の知らせに肩を震わせてハラハラと涙をこぼしたのでしょうか。
 
おっと、お恥ずかしい次第です、またいつもの癖が。右から左へ流してくだすってかまいません。未来ならぬ過去えず?の空想を禁じえず、根も葉もなき かきあぐねようとして。けれど一切が宇宙の塵と化したなら、それをいくら美化し美しくめかし繕おうとも許されると思うのです。許されるとも思う。まったく困ったものです。
 
砂浜のお城は波にさらわれて、完膚なきまで流されてしまったようなのです。干上がった海岸には小粒の貝殻と微かな塩の匂いのみが残って、わたくしはからっきし失われてしまった、がらんどうな空白として今ここにおります。そこにあるということは、美しいものです。たとえそれが辛く厳しいものであったとしてもです。もしもこの世が記憶の堆積であったなら、私はさしずめ宇宙の闇をさまようライカ犬でありましょう。いいえ、その順序さえ今では定かではございません。神隠しにあった私の思い出たちは果たしてどの空の下をほっつき歩いているのでしょうか。旅の途中どこかに落としてきたのでしょう。そうです、ひとり、旅をしておりました。野くれ山くれとそれは長い道のりでもっとも今となってはどこが始まりで、終着駅がどこなのか皆目検討もつきません。そればかりか一体何故にさすらうのか。その理由さえ分からないから風に吹かれるまま流されるまま足の向く方向へ放浪し続けたのでした。
 
朝昼夕晩と一日は過ぎました。東西南北と風景は移りました。
 
貴方にはどのように感謝すればいいか、露頭に迷い込んだ野良犬同然となった赤の他人の私によくしてくださいました。冷えますからこちらにきてあたりなさい、と優しいお声をかけてくださいまして、思えば人と言葉を取り交わすという行為、いや、それ以前に自分の声を耳にすることですらいったい、いつぶりでしょうか知るよしもありません。
吹き抜けのあばら屋にひだまりと雨だれをもたらしたあなたただ星のように押し黙り、我々の抱きせしむもの唾棄すべきもの、それがはからずも一致するということはよくある悲劇的な喜劇。運命とは無邪気なものですと肩をすくめ微小を浮かべた。このように目と目を合わせて言うことはなんだかとてお新鮮でこそばゆいものでして、私を捉えるその眼こそまばゆくて冷たい宇宙に洗わるる太陽を思わせます。世界とは鏡を通し、内眺むるとより繊細に明瞭に浮かび上がるのでしょう。おや、奥に人が一人写っております、陽炎のようにゆらゆらと揺れて、とてもとても懐かしいお方が、ね、写っておりますよ